観光アイコン

スポーツアイコン

イベントアイコン

アイコン

施設アイコン

とがくしみんランキング

「いいね!」数による集計

メンバー:宮澤旅館を含む検索結果

 

宮澤旅館

宮澤旅館

戸隠に古くから続く宿坊旅館です。時には歴史に恥じぬよう襟を正し、時にはのんびりだらりと綴っております。同じ様にご利用いただけたら幸いです。中の人はそれほど古くありません。

よくあるブログ

三 九頭竜神と歯の神様と梨

2016-02-20 10:15:09



三 九頭竜神と歯の神様と梨


   九頭竜神と歯の神様および梨を考察する場合、三者を一体としてではなく、分けて考えることが必要である。
 
   まず、九頭竜神と歯の神様の関連について考察してみたい。各地に祀られている歯の神様は、数多く例をみることができる。それらの中で特に注目されるのは、白山信仰との結び付きが多いことである。歯の神様として祀られている中から、白山信仰に関連をもつ例をあげてみよう。
 
 ① 更埴市五里田のおはくさん
 ② 南佐久郡小海町松原のはくさん様
 ③ 下高井郡野沢温泉村平林北ノ久保の白山さま
 ④ 長野市篠ノ井御幣川のはくさんさん
 ⑤ 佐久市塚原赤岩の白山様
 ⑥ 北佐久郡御代田町小田井の智恵団子
 ⑦ 長野市松代西条の梅の観音
 ⑧ 上水内郡戸隠村の九頭竜神社

(転載者註 現在では地名の変わった場所があるが、原文のままとした。)

   この中で、⑥は白山妙理観音、⑦は白山権現との結び付きを確認できるから、ともに白山信仰との関連が認められる。また、⑧については後述する。これらの歯の神様の他にも、『よわい草』(註17 ライオン歯磨小林商店が昭和初期に発行したもので、「歯に関する趣味の展覧会」を記念して出版された。)  によれば、全国の白山神社が歯の神様としてあげられているという。

   では、歯の神様と白山信仰とは、どのような関連をもつのであろうか。この点については、すでに神津氏が指摘されているように、
 a 昔の歯の病気は歯周病(歯槽膿漏)が主であり、
 b 歯周病でできた歯瘡を「はくさ」という。また、
 c 歯周病の「歯臭い」という感覚的表現や、
 d 「白山」の音読「ハクサン」との関連などから、民俗的に歯の神様と白山信仰が結び付いたといわれている。(註18 註1・六二頁)

   以上、神津氏が指摘された歯の神様と白山信仰の結び付きについて記したが、それでは、歯の神様と戸隠の九頭竜神との結び付きはどうであろうか。

   『善光寺道名所図絵』巻四には、四月と七月におこなわれていた戸隠の二季祭について記されている。その記述によれば、中院は七月八日、宝光院は十日、奥院は十五日に、神主が参勤して読経をし、火祭りがおこなわれていた。『善光寺道名所図絵』には火祭りの次第についても記されているが、注目すべきは火祭りの中心となる三本の柱松である。この柱松については、

 A 三院とも広前に立てること
 B 奥院の柱松を中心に据え、その両脇に飯綱権現と白山権現を隔年でこうごに据えること
 C 中院の柱松は三本とも竹で作ること
 D 宝光院の柱松は三本とも木で作ること
 E その理由は、宝光院門前の七〇軒は木を、中院門前八〇軒は竹を伐出することを生業として、官家より許可されていたこと
 F 奥院の柱松は中院および宝光院の門前の人々によって立てられるため、一本半は竹で、一本半は木で作ること
 G 三本の柱松はそれぞれ奥院権現、飯綱権現、白山権現の神名をもつこと
 H この神名のいわれについては、古くからの言い伝えのため、不明であること
  I 柱松の高さは六尺(約二三〇cm)、下巾は三尺(約一一五cm)であったこと
 J 柱松の焼け方によって、年の豊凶を占ったこと

などが確認できる。また、四月の祭りには、信越両国の戸隠流の修験者三〇余人も参集している点も看過できない。

   現在の戸隠ではおこなわれていない火祭りについて、たいへん興味深い記述であるが、本稿において注目されるのは、B・GおよびHの三点である。この火祭りにおいて、戸隠の白山の結び付きを確認することができる。戸隠および飯綱、白山信仰は、ともに修験道において結び付いていた。戸隠と飯綱信仰の関連については、『顕光寺流記』が記すように、学問行者はまず飯綱に登山し、そこから戸隠へと入山している。その後の歴史においても、両者の結び付きが極めて深いことは周知のとおりである。また、戸隠と白山信仰の結び付きも修験道によることは明らかであり、両信仰の接触はかなり深い時点にさかのぼると思われる。
(転載者註 戸隠神社では文中の火祭りを「柱松神事」として平成15年に復活させ、三年に一度斎行されている。)



   白山の開山伝承によれば、奈良時代の養老元(七一七)年、古志(越)の小大徳と後世いわれた泰澄によって開山されたといわれる。『泰澄和尚伝』によれば、泰澄が白山の山麓で祈禱していると、かつてはイザナミノミコト、今は妙理大菩薩という神女が現われ、その導きで泰澄は山頂に登拝したと伝えられる。そこで祈禱をしていると、九頭竜王が現われ、本地の姿を現わすようにいうと、たちまちのうちに十一面観音の姿を現わしたという。以来、現在の白山比咩神社および平泉寺を中心として、全国でも有数の修験霊場となった。(註19 註10・四一頁)

   白山といえばその山麓には、九頭竜川が流れている。命名については不明だが、この九頭竜川と戸隠の九頭竜神との両者にも、修験道を通した結び付きがあったと推察され、また、白山の主峰をなす大汝峰山頂下には、青石といわれる巨岩があり、天上界と地上界の境に立ち、両者を結ぶ宇宙軸のような役割を果たしているという。(註20 久保田展弘『山岳霊場巡礼』(新潮選書)一八九頁) 青色は道教における聖色であり、龍とも深い関連性をもち、道教思想と戸隠が結び付きをもつと考えられることから、ここでも白山と戸隠の関連がみられる。さらに、白山では山麓の川を境として、山を彼岸の浄土とし、川のこちら側を此岸の娑婆と考え、往生儀礼をおこなっていた。これは逆修という儀礼に相当するもので、生きている間にいったん死んだことにして葬式供養をし、それから再生すれば、一切の罪穢は消滅して、健康で長生きするばかりでなく、死後は必ず往生するという信仰であるという。(註21 五来重『日本人の地獄と極楽』(人文書院)五三・九七頁) この事例も、戸隠奥社前を流れるサカサ川との関連で注目されるのは。これらの事例の他にも、『顕光寺流記』にみられる火御子と白山の火の御子峰、両山の地主神である九頭竜神が『法華経』の呪力によって他所へ移される伝承など、白山と戸隠の関連は極めて深いと思われ、今後の重要な課題である。

   本稿のテーマにもどるが、前掲した『善光寺道名所図絵』にみられる柱松により、戸隠の九頭竜神と歯の神様の関連については、ほぼ説明できるものと考える。すなわち、歯の神様の信仰および民俗習慣には、白山信仰が重要な意義をもっていた。この両者には、歯周病でできた歯瘡を「はくさ」ということ、歯周病の「歯臭い」という感覚的表現、また、「白山」の音読「ハクサン」との関連などから、民俗的に歯の神様のと白山信仰が結び付いたといわれる。また、戸隠信仰には修験道を通して、白山信仰との結び付きがみられ、戸隠神社奥社に祀られる九頭竜神とも結びつく結果となったのであろう。このように、修験道を通して白山信仰との九頭竜信仰が結び付いた結果、歯の神様として九頭竜信仰が生じたものと考える。

   次に、梨と九頭竜神の関連について考察してみたい。両者の関連が認められる歯の神様を、神津氏の指摘によって『よわい草』の中から抽出してみよう。
 
 ⑨ 九頭竜権現 (東京)
 ⑩ 戸隠大明神 (大阪)
 ⑪ 戸隠明神 (岩手)
 ⑫ 白山様 (千葉)
 ⑬ 戸隠明神 (山梨)
 ⑭ 手力雄神社 (奈良)

   現在の所在が不明なものが多いが、梨と九頭竜神との結び付きは全国各地で確認されている。⑫は梨と白山信仰が結び付いた例であるが、両者の媒介をなしたのは九頭竜神であろう。では、梨と九頭竜神には、どのような関連がみられるのであろうか。

   ここで重要なことは、九頭竜神の本来の信仰が水神としての竜神であったことである。この竜神について著者は、『日本書紀』持統天皇五年八月の条文に記載された「水内神」であったと考察をした。(註22 註8・四九頁) 白鳳期には持統天皇より奉祭され、水内神(戸隠神社)に牙笏の奉納がおこなわれたと考える。しかし、牙笏は後に犀角笏と誤認され続けた長い歴史があり、犀角笏にかかわる伝承から、この誤認は道教思想との関連によると指摘した。

   ここで、道教の中心思想である神仙思想に注目したい。『水経』では「崑崙の壚は西北にあり、嵩高を去ること五万里、地の中なり。其の高きこと万一千、河水は其の東北隅に出ず」とあり、黄河の水源地としての崑崙山を記している。崑崙山について『山海経』「西山経」に、「是れ実に帝の下都なり」とあり、天上の帝都に対し、地中の中央に位置する山と記されている。この崑崙山は天帝の都に通ずる山であり、神仙思想における想像上の憧れの地であった。しかし、崑崙山の周囲は羽毛をも浮かばせることができない弱水という川が流れており、弱水は何人も渡れぬ溺れ川と考えられていた。

   「西山経」によれば、この弱水を渡り切れる方法が二つ記されている。一つは龍であり、一つは沙棠といわれる木の実であった。沙棠は「西山経」に「木有り。その状は棠の如く、黄華赤実、其の味は李の如くして核無し。名づけて沙棠と日う。以て水を籞ぐ可く、之を食えば人をして溺れざらしむ。」とある。(註23 平凡社版『山海経』四六四頁では、「棠」を「やまなし」と解釈している。) 梨の原産地は中国であり、古代中国における梨の認識は、水を司る仙薬としての木の実であった。

   すなわち、龍はすべての水を司る神、つまり、最高の水神であり、また、梨を食べることは、龍と同じく最高の水神に同化するというわけである。このように、龍と梨は神仙思想において一致する。最高の水神である竜神に捧げる品として、梨は最高の神供なのである。してみれば、梨を捧げられる戸隠の九頭龍神は、竜神中の竜神であり、まさに竜王の最高神であるといえるのではなかろうか。

   以上、神仙思想によって龍と梨が関連をもつと推察したが、戸隠と神仙思想が結び付いたのはいつのことであろうか。

   『山海経』は『日本国見在書目録』に書名がみられるから、奈良時代には人々に読まれていたことが確認できる。そして、神仙思想は道教および修験道の根本思想であるから、両者の結び付きは次の三時点にしぼられる。

 ア 水内神として奉祭された時点
 イ 竜神と修験道が接触した時点
 ウ 阿智祝が戸隠へ入山した時点

   国土の中央である信濃国に祀られる須波神および水内神を奉祭する背景には、道教思想が存在したであろうし、水神としての竜神と結び付いた修験道にも、神仙思想が深く関連をもつ。また、境界祭祀にかかわりをもつ渡来系の阿智祝が思兼命・表春命を戸隠に遷祀した背景にも、道教思想との関連があったと思われ、それぞれの時点で戸隠と神仙思想の結び付きをうかがうことができる。(註24 下伊那郡阿智神社前の西には、梨子野山から流れる梨子野川があり、東山道の阿智駅から育良駅への通過点には梨洞という地名が残っており、阿智祝と梨の関連をうかがわせる。(長野私立松代中学校教諭))

   この中から、両者の結び付きの時点を特定することは容易ではない。しかし、戸隠と神仙思想が結び付くことにより、九頭龍神と梨が関連をもった可能性は極めて高いと思われる。加えて、前述した戸隠と白山信仰の結び付きを通して、九頭龍神と歯の神様および梨が一体化したと推察する。その後は『善光寺道名図絵』の記述のごとく、「三本の柱松に神名を号する事古伝にて其いわれ、知りがたし」として、後世の信仰および習俗の中に伝えられたのではないかと考える。


おわりに


   戸隠の信仰は長い年月に渡り、さまざまな宗教思想が重層的に結び付き、相互に影響し合いながら、現在の姿を形成することになった。そのため、現在では不明となった伝承や物事が数多くみられる。しかし、不明なできごとではあっても、戸隠と関連をもつ以上、戸隠の歴史の中に究明の手がかりとなる思想・行事・伝承などが必ずや存在しているはずである。それらの中から現在の姿を明らかにすることは容易ではないが、逆に、その困難さに戸隠の神秘と魅力があるように思う。

   冒頭にも記したが、本稿は神津文雄氏の研究に導かれることが多く、ここに記して深く感謝申し上げたい。

   なお、お読みいただいた多くの方より、ご示唆いただければ幸いである。

 

宮澤旅館

宮澤旅館

戸隠に古くから続く宿坊旅館です。時には歴史に恥じぬよう襟を正し、時にはのんびりだらりと綴っております。同じ様にご利用いただけたら幸いです。中の人はそれほど古くありません。

よくあるブログ

二 竜神の衰退および九頭竜神としての復興

2016-02-19 13:27:22

二  竜神の衰退および九頭竜神としての復興


   戸隠の竜神信仰を考察する場合、竜神と九頭竜神を分けて考えることが必要である。

   戸隠神社(中社)には、奈良時代の牙笏が蔵されている。『日本書紀』持統天皇五年八月の条文に記された「水内神」は、風雨の災害から国土・穀物を守るため、竜田神および須波神とともに特別に奉祭された。竜田神の奉祭は広瀬神とともにセットで風雨の神を祭ったものであり、須波神・水内神も同じ配慮のもとにセットで祭られたであろうことは、すでに指摘したとおりである。(註8 拙著『戸隠竜神考』(銀河書房) 四五頁)

   この竜田神・広瀬神の奉祭は天武天皇四年を初見とし、持統天皇の時代にも継続されていた。それまでまったくみられなかった竜田神・広瀬神が、突如として国史に登場するのであるが、両神の奉祭は天武天皇に始まる宗教政策の一貫であり、持統天皇にも継承された政策であった。(註9 吉野裕子『持統天皇』(人文書院) 二○七頁) よって、竜田神・広瀬神とともに、突如として奉祭された信濃の須波神・水内神も、同じ宗教的制作の配慮のもとにセットで祭られたといえる。

   しかし、次の文武天皇の時代になると、竜田神および広瀬神の奉祭は、まったく国史にはみられない。それのみではない。『続日本紀』文武天皇三年五月丁丑の条には、役君小角が伊豆に配流された記述がある。役小角の宗教については明らかではないが、葛木山を中心として、呪術をおこなう山岳宗教者とみられる。役小角を訴えた韓国連広足は呪禁道にすぐれ、天平四(七三二)年には典薬頭任じられている。

   呪禁道とは呪術をもって厄災・悪神の害を禁ずるもので、道教の方術に巫術を加えた中国土俗の医療呪術に他ならず、道教は中国の民族信仰である長寿延命の信仰の上に成立したものである。よって、役小角の宗教は道教と深く関わりをもつものであったと指摘されている。(註10 村山修一『修験の世界』(人文書院) 一七頁)

  この役小角の配流というできごとも、文武朝の宗教政策と関連した動きであったのではなかろうか。(註11 梅原猛『神々の流竄』(吉川弘文館) 二五七頁) このような天武・持統天皇と文武朝の政策の違いは、宗教政策のみではなく、政治全般にわたって隔たりがみられるとの指摘もなされている。(註12 直木孝次郎『持統天皇』(吉川弘文館) 二五七頁)

   前述したように、信濃の須波神および水内神の奉祭は、竜田神および広瀬神の奉祭とともにセットであり、その背後には天武および持統天皇の宗教的配慮が推察された。しかし、文武朝の施政は、天武および持統天皇とは異質である。水内神衰退の原因には、この文武朝の宗教政策が強く影響していたと思われる。

   現存する他の四枚の牙笏は、中央の高名な人物とのかかわりをもち、貴重な牙笏としての歴史をもっている。したがって戸隠の牙笏も犀角笏として誤認されるまでには、牙笏としての認識が忘れられるほどの衰退期が、必ずやあったであろう。

   『続日本紀』仁明天皇承知十(八四三)年四月には、竜田神および広瀬神の奉祭が再び記されている。また、須波神も、『続日本紀』承知九(八四二)年五月には従五位下の神階を与えられ、復活することになるが、水内神はついに後の歴史に姿を現すことはない。

   前述した文武朝の宗教政策が、水内神の衰退の原因だとすれば、持統天皇からの奉祭を受けた直後の八世紀初期から、すでに衰退が始まっていたといえる。また、竜田神および広瀬神、須波神が再び国史にみられるのは九世紀中頃だが、水内神としての竜神はこの頃すでに、修験道および密教との接触がおこなわれていたと思われる。

   『普曜経』の中では、「釈尊誕生に際し、九頭の竜が出現した」と記されている。また、『胎蔵曼荼羅図』には「水天の眷属」として九頭竜が記され、密教養護の善神とみなされている。このように、九頭竜は密教と深く結びつきをもつ竜王の最高神とされている。日本における密教の普及に関しては、白山や英彦山のごとく、九頭竜と仏教者とのかかわりが語られている。戸隠の九頭竜神も、学問行者により『法華経』の読誦を通して鎮まる記述が『顕光寺流記』にみられる。

   水神としての竜神信仰が、密教や修験道の信仰の定着および発展に重要な要素であることは、他の霊山・霊場の例をみても明らかである。戸隠と修験道および密教との結びつきは、古来より全国的に周知された事実であり、修験道および密教は道教思想との結び付きをもつことから、戸隠における信仰が牙笏を奉納された水内神としての竜神から、牙笏を犀角笏と誤認した修験道および密教との関連をもつ九頭竜神へと、姿を変えて復興したのではないかと推察する。

   天台学僧皇円が著述した『阿裟縛抄』には、「戸隠寺縁起」が所収されているが、『吾妻鏡』文治二年三月十日の条で戸隠寺は、「天台山末寺顕光寺」と記されているから、文治二(一一八六)年までには比叡山延暦寺の末寺として荘園化されていたことがわかる。(註13 片山正行「頼秀流井上氏と戸隠寺」(『長野』第一三○号』 一二頁)

   「戸隠寺縁起」では戸隠の神を「鬼」と記しているが、戸隠寺を奉ずる人々が祀っていた神が鬼とは考えられない。憶測ではあるが、比叡山からみた一地方神への命名か、もしくは『殿暦』『三槐記』『百錬抄』にみられる国家(鳥羽天皇)を呪詛した顕光寺十三代別当静実の影響によるものであろう。ともかく、十二世紀後半の段階では、戸隠は比叡山延暦寺の末寺となっていた。

   さらに、新たな信仰へと戸隠を変容させた出来事が、思兼命・表春命を戸隠に遷祀した阿智祝の戸隠入山であった。下伊那郡阿智は東山道が御坂峠より下りた地点であり、御坂峠からは多くの祭祀的遺物が発見されている。これらの遺物については峠祭祀用具であるといわれ、峠を境とした境界祭祀がおこなわれていた場所と思われる。

   この境界祭祀にかかわりをもつ氏族は、阿智使主が率いてきたといわれる十七県の党類の後裔氏族に多くみられるという。(註14 加藤謙吉『大和政権と古代氏族』(吉川弘文館)九十二頁)後に東漢氏といわれる渡来系氏族であるが、境界祭祀は主に境部(坂合部)を称する集団がかかわっていた。御坂峠の信濃国側の麓に存在した阿智祝は、御坂峠にかかわる峠祭祀との関連があったのであろうか。(註15 桐原健『点描・信濃の古代』(信毎書籍出版センター)二一〇頁)阿智祝がこれらの氏族と同類であるならば、岩屋戸神話を奉じて戸隠に入山した行動も理解できる。すなわち岩屋戸神話とは、天の岩屋の内と外を境とする岩戸にかかわる境界祭祀といえるからである。この阿智祝が戸隠に思兼命および表春命を遷祀したのは、『昔事縁起』にみられる天暦年間の十世紀中頃と考えられる。(註16 『市村咸人全集』第二巻(下伊那郡教育会)一四一頁)

   このように、戸隠本来の信仰は七世紀末の持統朝に奉祭された水内神としての竜神信仰であったが、八世紀初頭の文武朝以後に衰退が始まる。その後、九世紀前後に密教および修験道と習合する形で九頭竜神として復興し、さらに十世紀中頃、岩屋戸神話を奉ずる阿智祝の入山により、戸隠信仰の原形が重層的に形成されたのではないかと考える。

 

宮澤旅館

宮澤旅館

戸隠に古くから続く宿坊旅館です。時には歴史に恥じぬよう襟を正し、時にはのんびりだらりと綴っております。同じ様にご利用いただけたら幸いです。中の人はそれほど古くありません。

よくあるブログ

はじめに ~ 一 古代日本人の龍認識

2016-02-18 16:26:20

戸隠竜神考
  ─ 九頭龍神と歯の神様と梨 ─

宮澤 和穂


はじめに

 戸隠の九頭竜神について、江戸時代の『和漢三才図会』には「伝日、神形九頭、而在岩窟内、以梨為神供」と記され、梨が第一の神供とされていた。また、神津文雄氏によれば、歯の神様として九頭竜神が多くみられるとともに、歯痛の際におこなわれるさまざまな習俗の中には、梨が関連して登場するという。(註1 神津文雄『歯の神様』(銀河書房)五五・二〇〇頁)このように九頭竜神は、梨を第一の神供とする歯の神様として広く周知されていた。

 ところが、この三者の結びつきについては不明な点が多く、神津氏も九頭竜神とともに「どうして歯痛と梨が結びついてくるのかよく分からない」と述べている。また、現在では戸隠においても、三者の結び付きについて確認することが困難となっている。

 そこで本稿では、神津氏のご指摘をもとに、三者の関連について考察してみたい。


一   古代日本人の龍認識

 
 戸隠の竜神を考察する場合、まず、古代人がどのような竜(龍)認識をもっていたか、確認しておく必要があるだろう。

 初めて日本人が認識した龍は、中国大陸から伝播されたものであったろう。『魏書』「東夷伝」倭人の条には、邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝に使者を遣わした際、答礼の下賜品の中に「緯地交龍錦五匹」「銅鏡百枚」が記されている。交龍とは二匹の龍が体を絡ませた姿を描いたものであったろうし、銅鏡の裏画には聖獣としての青龍が浮き彫りにされていたであろう。(註2 森豊 『龍』シルクロード史考察(六興出版) 一七頁)

 龍が対の姿で描かれた例は、中国において多出する。代表的なものに、二里頭遺跡、中山王墓、馬王推漢墓などの発掘品があげられる。(註3 曽布川寛『    崑崙への昇仙』(中公新書) 三頁) これらの発掘品からは、すでに殷もしくはそれ以前の時代から、龍は死後において霊魂が不死の世界に到達できるための想像上の瑞獣と認識されていたことがわかる。

 また、五行思想では四神の一つとして、青龍が位置づけられている。北方に玄武、東方に青龍、南方に朱雀、西方に白虎を配し、それぞれが守護神として認識されている。卑弥呼が使者を遣わした魏においては、道教思想が流行しており、下賜品の錦および銅鏡にみられた龍は、道教思想にもとづいた龍認識であったと思われる。このような道教思想を弥生時代の段階で、日本人が理解していたか否かが問題となるが、『魏書』に記された卑弥呼の「鬼道」が、道教的思想であったとの指摘もみられる。(註4 重松明久『古代国家と道教』(吉川弘文館) 二九頁)

五行思想における青龍認識が、日本において定着したとみられるのは七世紀末から八世紀初頭の白鳳時代である。みごとな壁画が描かれていた高松塚古墳により、五行思想における青龍を認識することができ、また、薬師寺如来の台座においても確認することができる。さらに、『古事記』『日本書紀』にみられる神話の記述は、中国思想を十分に理解した上での内容である。したがって、白鳳時代における当時の知識人は、五行思想にもとづく青龍としての龍認識が、確実になされていたと思われる。

 『春秋左氏伝』には「龍の星座が出現するようになったら雨乞いの祭りをする」とあり、また、漢の時代には干魃になると土で龍の像を作り、雨を降らせてくれるように祈る祭りが記録されているという。(註5 林巳奈夫『龍の話』(中公新書) 一・二八・四四頁) 『日本国見在書目録』には『春秋左氏伝』の書が確認できるから中国から伝播された龍について、五行思想の青龍認識とともに、雨乞いの神、水神としての青龍認識が、奈良時代の日本人には定着していたといえる。
 次に、中国から伝播した龍認識とともに、六世紀以降に広がる仏教もまた、日本における龍認識に大きな影響をもたらした。

 龍が登場する仏典は数多く、『大方等日蔵経』に四龍王や二龍王、『僧護経』に四龍王、『大灌頂神呪経』に三五の龍王、『大雲請雨経』に一八六の龍王、『大方等大雲経』に三万八千の龍王が仏の説法を聞いたという。その他、『法華経』には八大龍王が登場し、『大孔雀明王経』には多頭の龍の存在が説かれ、『長阿含経』『大智度論』『阿毘達磨具舎論』『金光明最勝王経』などにも、さまざまな龍の姿がみられるという。(註6 註2 四三頁)

 しかし、インドに起こった仏教ではあるが、日本へは中国および朝鮮から招来されてきた。したがって、インドにおける龍神ナーガの認識と日本にもたらされた龍認識とは、かなり異なったものであったろう。『日本書紀』『万葉集』『丹後風土記』逸文などには浦島子伝説がみられるが、竜宮が蓬莱山や常世などの神仙思想と重層する形で記されている。(註7 下出積興『古代神仙思想の研究』(吉川弘文館) 一七一頁)

 このような事例から、日本における当初の龍認識は、古代中国以来の認識を主とし、仏教における龍王は中国的に変容された形で認識されていたように思われる。ただし、後世における龍認識の広がりは、仏教思想を通した認識が主であり、逆に、古代中国以来の龍認識が影を潜める様相を呈していることは周知のとおりである。

 

宮澤旅館

宮澤旅館

戸隠に古くから続く宿坊旅館です。時には歴史に恥じぬよう襟を正し、時にはのんびりだらりと綴っております。同じ様にご利用いただけたら幸いです。中の人はそれほど古くありません。

よくあるブログ

一 古代日本人の龍認識

2016-02-18 16:26:20

戸隠竜神考
  ─ 九頭龍神と歯の神様と梨 ─

宮澤 和穂


はじめに

   戸隠の九頭竜神について、江戸時代の『和漢三才図会』には「伝日、神形九頭、而在岩窟内、以梨為神供」と記され、梨が第一の神供とされていた。また、神津文雄氏によれば、歯の神様として九頭竜神が多くみられるとともに、歯痛の際におこなわれるさまざまな習俗の中には、梨が関連して登場するという。(註1 神津文雄『歯の神様』(銀河書房)五五・二〇〇頁)このように九頭竜神は、梨を第一の神供とする歯の神様として広く周知されていた。

   ところが、この三者の結びつきについては不明な点が多く、神津氏も九頭竜神とともに「どうして歯痛と梨が結びついてくるのかよく分からない」と述べている。また、現在では戸隠においても、三者の結び付きについて確認することが困難となっている。

   そこで本稿では、神津氏のご指摘をもとに、三者の関連について考察してみたい。


一   古代日本人の龍認識

 
   戸隠の竜神を考察する場合、まず、古代人がどのような竜(龍)認識をもっていたか、確認しておく必要があるだろう。

   初めて日本人が認識した龍は、中国大陸から伝播されたものであったろう。『魏書』「東夷伝」倭人の条には、邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝に使者を遣わした際、答礼の下賜品の中に「緯地交龍錦五匹」「銅鏡百枚」が記されている。交龍とは二匹の龍が体を絡ませた姿を描いたものであったろうし、銅鏡の裏画には聖獣としての青龍が浮き彫りにされていたであろう。(註2 森豊 『龍』シルクロード史考察(六興出版) 一七頁)

   龍が対の姿で描かれた例は、中国において多出する。代表的なものに、二里頭遺跡、中山王墓、馬王推漢墓などの発掘品があげられる。(註3 曽布川寛『崑崙への昇仙』(中公新書) 三頁) これらの発掘品からは、すでに殷もしくはそれ以前の時代から、龍は死後において霊魂が不死の世界に到達できるための想像上の瑞獣と認識されていたことがわかる。

   また、五行思想では四神の一つとして、青龍が位置づけられている。北方に玄武、東方に青龍、南方に朱雀、西方に白虎を配し、それぞれが守護神として認識されている。卑弥呼が使者を遣わした魏においては、道教思想が流行しており、下賜品の錦および銅鏡にみられた龍は、道教思想にもとづいた龍認識であったと思われる。このような道教思想を弥生時代の段階で、日本人が理解していたか否かが問題となるが、『魏書』に記された卑弥呼の「鬼道」が、道教的思想であったとの指摘もみられる。(註4 重松明久『古代国家と道教』(吉川弘文館) 二九頁)

  五行思想における青龍認識が、日本において定着したとみられるのは七世紀末から八世紀初頭の白鳳時代である。みごとな壁画が描かれていた高松塚古墳により、五行思想における青龍を認識することができ、また、薬師寺如来の台座においても確認することができる。さらに、『古事記』『日本書紀』にみられる神話の記述は、中国思想を十分に理解した上での内容である。したがって、白鳳時代における当時の知識人は、五行思想にもとづく青龍としての龍認識が、確実になされていたと思われる。

   『春秋左氏伝』には「龍の星座が出現するようになったら雨乞いの祭りをする」とあり、また、漢の時代には干魃になると土で龍の像を作り、雨を降らせてくれるように祈る祭りが記録されているという。(註5 林巳奈夫『龍の話』(中公新書) 一・二八・四四頁) 『日本国見在書目録』には『春秋左氏伝』の書が確認できるから中国から伝播された龍について、五行思想の青龍認識とともに、雨乞いの神、水神としての青龍認識が、奈良時代の日本人には定着していたといえる。
  
   次に、中国から伝播した龍認識とともに、六世紀以降に広がる仏教もまた、日本における龍認識に大きな影響をもたらした。

   龍が登場する仏典は数多く、『大方等日蔵経』に四龍王や二龍王、『僧護経』に四龍王、『大灌頂神呪経』に三五の龍王、『大雲請雨経』に一八六の龍王、『大方等大雲経』に三万八千の龍王が仏の説法を聞いたという。その他、『法華経』には八大龍王が登場し、『大孔雀明王経』には多頭の龍の存在が説かれ、『長阿含経』『大智度論』『阿毘達磨具舎論』『金光明最勝王経』などにも、さまざまな龍の姿がみられるという。(註6 註2 四三頁)

   しかし、インドに起こった仏教ではあるが、日本へは中国および朝鮮から招来されてきた。したがって、インドにおける龍神ナーガの認識と日本にもたらされた龍認識とは、かなり異なったものであったろう。『日本書紀』『万葉集』『丹後風土記』逸文などには浦島子伝説がみられるが、竜宮が蓬莱山や常世などの神仙思想と重層する形で記されている。(註7 下出積興『古代神仙思想の研究』(吉川弘文館) 一七一頁)

   このような事例から、日本における当初の龍認識は、古代中国以来の認識を主とし、仏教における龍王は中国的に変容された形で認識されていたように思われる。ただし、後世における龍認識の広がりは、仏教思想を通した認識が主であり、逆に、古代中国以来の龍認識が影を潜める様相を呈していることは周知のとおりである。

 

宮澤旅館

宮澤旅館

戸隠に古くから続く宿坊旅館です。時には歴史に恥じぬよう襟を正し、時にはのんびりだらりと綴っております。同じ様にご利用いただけたら幸いです。中の人はそれほど古くありません。

よくあるブログ

転載者より

2016-02-18 16:25:25


戸隠竜神考 ─ 九頭竜神と歯の神様と梨 ─

転載者より


「玄冬の戸隠」「鬼無里への誘い」等の著者として知られる
宮澤和穂(かずほ)氏による


 「戸隠竜神考 ─ 九頭竜神と歯の神様と梨 ─」
 (平成5年7月発行 長野郷土史研究会機関誌『長野』第170号)


 ご本人より論文の転載許可をいただきましたので、本ブログにて掲載いたします。
未だ謎の多き古代からの戸隠信仰の一つに迫るこの論文。中にはいささか難解な事柄もございますが、とても興味深く面白い内容なので、是非ともお付き合いいただければと存じます。

 転載に関しまして「ブログ」というものの性質上、以下のことご容赦願います。

・数回に分けての掲載となること。
 ・デザイン上の読みやすさを考慮して段落ごとに一行のスペースを設けること。
・文中の註については、その都度文章内にカッコ()にて入れること。
・転載者より、その他必要と思われる事柄についてはカッコ()にて説明すること。

 

宮澤旅館

宮澤旅館

戸隠に古くから続く宿坊旅館です。時には歴史に恥じぬよう襟を正し、時にはのんびりだらりと綴っております。同じ様にご利用いただけたら幸いです。中の人はそれほど古くありません。

よくあるブログ

山と雪と水の信仰

2016-02-17 09:37:24

{7B247749-6223-4F74-A121-AE0F625F5294:01}

   朝起きると雪が降っていました。予報によると本日は一日中降るとかで、これで先日の雨の分は補えるのではないでしょうか。雪質はサラサラ。雪玉や雪だるまの作りにくい、戸隠名物のあれです。
   現代では雪がないと雪遊びが出来ないので困り、そして古代から現代まで続く、雪がないと水がなくて困るという、困っちゃうの法則。水はなくても困り、あり過ぎても困る。自然相手なので仕方がないとはいえ、状況に応じてなんとかならないものでしょうかと、神様仏様に祈りを捧げるのは、古代も現代も人ならではの自然の法則と考えます。

   方向性は少し違うのですが、そうした古代より現代にまで続く信仰の、戸隠に残る信仰の、謎めいた部分に迫る論文を、近い内に公開したいと思います。以前に別の場で発表されたそうですがご存知ない方が多いかと思いますので、許可を頂きましてこちらに掲載したいと準備を進めております。
   ええ、私の書いたものではありません。

   ひとまず本日は雪と戦わなくてはいけませんのでちょっと行ってきますが、どうぞお楽しみに、乞うご期待、待っててくれよなと、全ての戸隠ファンの方々にお読みいただければと思っております。

 

宮澤旅館

宮澤旅館

戸隠に古くから続く宿坊旅館です。時には歴史に恥じぬよう襟を正し、時にはのんびりだらりと綴っております。同じ様にご利用いただけたら幸いです。中の人はそれほど古くありません。

よくあるブログ

2月の雨

2016-02-15 10:44:00

{86721D08-3213-40D2-B94F-EA9FAACD0097:01}

    週末は雨が降ってしまいました。
    雨という言葉の持つ文学性は味があって好きなのですが、冬の2月に降られてしまうと、現実的な悲しさが先行してしまってあまり好きじゃありません。
    などと考えながら写真を撮ってしばらくすると、雨音が聞こえないじゃありませんか。降るには降りましたけど大雨にはならなかったようです。

    明けて本日。戸隠は寒いです。冬です。
    雨とともにひょっこりと顔を出した春の匂いがハラハラと舞う雪と寒さでまた冷凍庫にしまわれて、じゃあいったいこの週末はなんだったのかと文句を言っても仕方がないのでしょうが、つい愚痴をこぼしたくなるような、いや、戻ったことをおかえりと感謝すべきでしょう、とにかく戸隠はまた冬の匂いが帰ってきました。

 

宮澤旅館

宮澤旅館

戸隠に古くから続く宿坊旅館です。時には歴史に恥じぬよう襟を正し、時にはのんびりだらりと綴っております。同じ様にご利用いただけたら幸いです。中の人はそれほど古くありません。

よくあるブログ

いじわるな自然

2016-02-13 13:22:38

{4D624015-582A-4F6F-8EA9-A58088F2356D:01}

    こちらは金曜日の写真。スマートフォンのパノラマ写真機能を使い、戸隠スキー場のあります瑪瑙山山頂で遊んでみました。
    こうした綺麗なものを俯瞰し心地よい気分になりながら、今週末の天候が荒れるとかという予報がぜひとも外れて欲しいなと願いつつも、その予報の前兆かのようないつもとは違った雲の流れがおもしろく感じてしまい、なんと言いましょうか、複雑な心境です。憎いけれど愛しいお方のいけずな部分に触れてしまいました。

    ただ今のゲレンデの状態は、気温が上がって少し春めいてきましたが、滑る上での雪の量は問題ありません。週末のお天気が心配ではありますが、今の所大雨にはなっておりませんので、聞くところによると、充分にお楽しみいただける状態だとか。

    そんなことを言われ、色んなことを忘れてうっかり滑りに行ってしまおうかと、悩んでおります。